釜ヶ崎暴動

年表

第1次(1961年8月1日から5日間)

昭和36年8月1日、日雇労働者(老人)がタクシーにはねられた交通事故をきっかけにして付近の労働者がい集し、救急車の処理の遅れから、「見殺しにした」などと騒ぎだし、次第に暴徒化した群衆が、5日間にわたり、派出所、商店、通行車両、西成警察署などを襲撃して、放火、投石、略奪等の不法行為を繰り広げた。これが最初の釜ヶ崎暴動であり、死者1人を出したほか、警察官の負傷者771人、一般人の負傷者163人、検挙者194人、動員警察官10万5000人という戦後最大の暴動事件に発展した。事件は、交通事故処理に対する不満やスラム街における不満の爆発というだけではすまされない状況を呈し、暴徒化した集団の恐怖を国民に知らしめるものとなり、地区対策の必要性を強く示すできごとでもあった。

第2次(1963年5月18日から6日間)

長雨で求人数が減少し、仕事にあぶれる者が多く、不満が鬱積していた折りから、夜間作業の求人に来た小型トラックを労働者50人位が取り囲み「オレ達にも仕事をさせろ」とわめきながら車をゆさぶったり、叩いたりした。通行人の110番通報で西成署員30人を乗せたパトカー5台が現場にかけつけ、小型トラックは離脱できたが、サイレンの音を聞いて付近から集まった労働者が600人位に膨れ上がり、取材に来た新聞社の車を取り囲んで足でけったり、通りがかりのタクシーに投石するなどの乱暴を始めた。その後、説得により一旦は四散したが、再びい集し始め、通行車両やバスに投石を繰り返し、乗客が負傷する事態も生じた。離合集散を繰り返しながら6日間続いた。

第3次(1963年12月31日から2日間)

就労のため福祉センター前に集まった約1500人の労働者が、求人が少ないことから騒ぎだし、暴徒化して通りがかりのタクシーや市バス、乗用車のほかパチンコ店などにも投石し、重傷者も出た。また、ガソリンを浸した布きれを道路にまいて放火し、交通を妨害するなどの不法行為に及んだ。

第4次(1966年3月15日の1日)

立ち呑み屋で酒代の支払を巡って店員と労働者が喧嘩となり、関係者を西成警察署に同行したことから、労働者約500人が同署に押しかけ、酔って煽る一部の労働者の煽動で同署玄関に投石するなどの不法行為を行った。なお、警備のため同署に向かう途中の私服警察官が刃物で刺される事件も生じた。

第5次(1966年5月28日から3日間)

火事現場に集まった約2500人の群衆が「消防車が遅い」などという一部煽動者の言葉に刺激され、次第に暴徒化し、パチンコ店や食堂、民家、派出所などや通行車両、電車などに放火、投石し、警察官の拳銃を奪うなどの不法行為に及び、新聞社のカメラマンらが重傷を負った。

第6次(1966年6月21日から3日間)

パチンコ店での店員と労働者との喧嘩がきっかけとなり、約1500人がい集、その後次第に暴徒化して、パチンコ店に投石し、シャッターを壊すなどして暴れ、取材のカメラマンや警察官ら九人が負傷し、南海電車も一時運行を取り止めざるをえなかった。

第7次(1966年8月26日の1日)

果物店で西瓜が腐っていたかどうかで労働者と店主が口論、これをきっかけに1200人の群衆がい集し、同店の雨戸を壊し、電車を止め、パトカーなどに投石した。

第8次(1967年6月2日から8日間)

飲食代金が70円不足し、店主が客の頭をこづいたりしたことから、まわりにいた労働者がいきりたち、店主らを殴り、ビール瓶を投げたりしたが、パトカーが駆けつけ、一旦騒ぎは収まった。しかし、その後、再び労働者が集まり始め、「店を燃やせ」などとわめきながら同店に向かって石やビール瓶を投げつけ、店の窓ガラスや店内の食器類のほとんどを壊し、店主に負傷させるなどし、騒ぎがますます広がり、約3000人の群衆が集まり、通行車両や商店、民家、警察官に投石するなどの不法行為を繰り返した。なお、この暴動について、当時の府警警備部長は、「いったん飲食店での騒ぎがおさまったあと、もう少し長く警官をおけば………とも思うが、警官が長くいるとよけいに騒ぎを起こすことにもなり、そのへんのかね合いがむずかしい」と新聞記者に語っており、また、警備本部では昭和41年11月に設置された防犯テレビカメラ(後記カメラ1、2)を見ながら指揮をし、これまでのハンディ・トーキーだけに頼っていたのに比べ、群衆の動きが的確につかめ、状況に応じて本署に待機している機動隊を出動させるなど、「うてばひびく」対策が取られた旨の報道がなされている。

第9次(1970年12月30日の1日)

年末で求人が激減したため、一部の者に煽動された約500人の労働者が福祉センター求人詰所で、センター職員を監禁し、石油ストーブを倒して放火して詰所を全焼させ、さらに付近の商店を荒し回り、時計店のショウウィンドウを破って時計160点を奪うなどの不法行為を行った。

第10次(1971年5月25日から5日間)

夜間作業のため求人に来たマイクロバスに労働者が無理に乗り込もうとしたことに端を発し、労働者約130人が求人会社まで押しかけ、アブレ料を強要したのち、地区に潜入していた過激派学生などの煽動で、「警察が労働問題に不当介入した」として西成警察署に攻撃の矛先を向け、警察施設に対する投石や車両放火をしたほか、パチンコ店への襲撃などの不法行為を行った。

第11次(1971年6月13日から5日間)

簡易宿所の管理人が玄関に酔っぱらって寝ていた労働者を抱きかかえて移動させようとして喧嘩になり、殴って怪我をさせたことから、騒ぎを見ていた労働者が「ドヤのオヤジはひどい」とふれ回ったため、約1000人の労働者が集まり、酒に酔った労働者が旅館に投石したほか、旅館、パチンコ店、商店への投石、車両の放火、古物商から時計の略奪等の不法行為を繰り返し、一時電車も運転を中止した。

第12次(1971年9月11日から3日間)

果物店の店員が酩酊した労働者を転倒させ負傷させたことから、付近の労働者が騒ぎ出し、約1000人がい集し、その一部の者が果物店に放火して三棟を全半焼させたほか、付近の商店や消防車や機動隊に投石した。

第13次(1972年5月1日から2日間)

全港湾西成分会(総評系組合で昭和四六年末に原告稲垣浩も加盟)主催の釜ケ崎メーデーで公務執行妨害で逮捕された被疑者の釈放を要求する抗議集会がきっかけで、釜ケ崎は革命の根拠地などと称する過激派学生などの煽動で労働者約2000人が西成警察署に押しかけて投石して窓ガラスを割り、さらに近くのパチンコ店、質屋を襲撃して時計などを奪った。

第14次(1972年5月28日から4日間)

早朝、総合センター前で活動していた全港湾西成分会員と手配師との喧嘩に端を発し、約50人の労働者と手配師とが殴り合いになったことから労働者が騒ぎ出し、約二〇〇〇人が乗用車に放火したり、商店街を荒らし回り、一部が天王寺駅前まで進出し、市バスを取り囲んだり、商店を荒らすなどのゲリラ的行動に出た。新左翼系活動家などの煽動があったとみられている。

第15次(1972年6月28日から6日間)

第14次集団不法事案に関連する一斉検挙に抗議して釈放を求める過激派活動家らに呼応して約1000人の労働者が西成警察署前に集まり、一部が地区内を移動しながら車両に放火や投石をするなどの不法行為を行った。

第16次(1972年8月13日から4日間)

赤軍派学生と暴力手配師追放釜ケ崎共闘会議(釜共闘ー昭和四七年ごろから「あいりん地区」に進出した共産主義者同盟赤軍派が、同年六月、旧ML派活動家等とともに結成した団体。当初、原告稲垣浩も結成に参加。過激な爆弾闘争を展開し、各種事件を引き起こした。その後、構成員の検挙、内部対立により分裂したが、なお地区内に残り活動を続けている者が存在する)などで結成した「釜ケ崎夏祭り実行委員会」主催で初めての夏祭りが三角公園で行われたが、この期間中、右翼団体が押しかけて釜共闘とこぜりあいとなり、五人が検挙され、さらに警備中の警察官に爆竹を投げつけた少年を検挙したことに端を発し、釜共闘メンバーの煽動で労働者が西成警察署に抗議行動に押しかけ、一部の労働者が新世界などでゲリラ行動をとり、車両、民家、商店等のガラスを破るなどの不法行為を行った。

第17次(1972年9月11日から5日間)

新世界で当日新装開店したパチンコ店が機械の故障からわずか30分で閉店したことに不満を持った遊戯客に見物人も加わって約500人が騒ぎ出し、同店のガラスドアを叩き破り、一部は通天閣下の商店街で投石を繰り返した。

第18次(1972年10月3日から2日間)

医療センターで労働者と職員のトラブルについて、釜共闘が「患者対応の不適切」として取上げて抗議行動をしたことから、約300人の労働者が商店街で爆竹を鳴らしたり、投石するなどして騒いだ。

第19次(1972年10月10日から2日間)

総合センターで釜共闘の活動家が「暴力手配師追放」集会を開き、同センターにいた手配師を次々に吊るし上げたのに対し、手配師グループ30人が角材を持って同センターを襲い、労働者一人に怪我を負わせたことから、釜共闘メンバーを中心にした約100人が手配師の求人組織の事務所に押しかけ、民家のガラス、駐車車両を破壊するなどの不法行為を繰り返した。

第20次(1973年4月30日から2日間)

ゴールデンウィーク期間中の求人減で仕事にあぶれた労働者を釜共闘が煽動し、1500人に膨れ上がった労働者が商店街や警察施設等に投石等の不法行為を繰り返し、電車の窓ガラスや駅員詰所を叩き壊すなどして、一時電車の運行を中止させるなどした。

第21次(1973年6月14日から15日間)

酔っぱらい同士の喧嘩をきっかけに約300人の労働者がい集し、商店のショウウィンドウ、シャッター等を蹴り、警戒中の警察官に投石、暴行して8人に負傷を負わせた。

第22次(1990年10月2日から6日間)

西成警察署の暴力団担当刑事の贈収賄事件を契機に,釜ケ崎日雇労働組合(釜日労ー昭和51年7月に原告稲垣浩が結成。「釜共闘の実力闘争を引き継ぐ戦闘的労働組合の確立」を標榜し、実力闘争路線を指向する。労働者による寄せ場の支配権の確立を基本方針とするが、運動は転機を迎えており、体制の強化等に努めている。行政や求人業者に対する反差別闘争、越冬闘争・メーデー・夏祭り・春季賃上げ闘争・医療相談などの大衆闘争を行っている。但し、同原告は昭和56年に脱退している)などが西成署員と暴力団との癒着問題として抗議行動を起こし、西成警察署周辺に労働者がい集し始め、ピーク時には1600人を越える労働者が集まり、先頭に立つ一部の労働者に加え、他府県などから流入してきた暴走族風の若者らが中心になって投石したり、車両に放火したほか、商店を襲撃して略奪等の不法行為を繰り返した。労働者達は後方で成り行きを眺めるだけの者が多く、長引く騒ぎに不満をもらすものもいた。また、この騒ぎで付近の商店街は臨時休業し、小学校も終業を早めるなど市民生活にも大きな影響が生じた。2日夜から6日までの逮捕者は49人、負傷者は警察官114人を含む144人であった。 

第23次(1992年10月1日から3日間)

経済の低迷の影響を受けて、求人件数が激減し、仕事にあぶれた者が増大したことから、釜日労を中心に「反失業闘争」が展開されていたところ、市更相は、緊急対策として「応急援護資金貸付制度」の融資条件を緩和して対応していたが、予想以上の労働者が融資を求めたため、財源的に行き詰まった市更相が同年9月30日をもって応急援護金貸出を打ち切り、翌10月1日には職員が職場を放棄し窓口業務が停止した。ところが、市更相に押しかけていた労働者がこれに反発して騒ぎが広まり、最盛時には約750人が市更相周辺に集まり、夜間から深夜にかけて、警察部隊や市施設等に投石し、駐車車両、放置自転車、ゴミ箱等に放火を繰り返した。これにより、警察官17名を含む18名が負傷し、車両・自転車の火災は108台に及び、一店舗で商品が略奪され、市の施設のガラス56枚が破損し、鉄道、道路にも影響が及んだ。これに対し、3日間で延べ7500人の警察官が動員され、13人が検挙された。

2004年12月3日から4日

釜ヶ崎崎地域合同労働組合が西成警察署前で「警官が労働者に暴行を加えた」として抗議し西成警察署前に約250人の労働者が詰め掛け、100人以上の警察官らが付近の警戒に当たるなど騒然となった。

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第24次(2008年6月13日から6日間)



関連リンク




出典:
  • 「あいりん地区の概要」大阪地判平成6年4月27日第9民事部判決

  • 最終更新:2012-06-08 12:23:10

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